みつおです。
過去に書いたプロフィールを含め、ボクは会社員時代従事していた業種を「車関係」と表現していました。
これは単純に言って、関係者に詳細が知れることを恐れていたからです。
しかし、ボクが独立して10年が経ちました。
また、当時勤めていた会社の役員も、ほぼ退職したとの情報を得ました。
そして何より、これからボクが作成するコンテンツの信憑性を増すために、ボクの職歴の詳細を公開したいと思います。
オートバックスと亀屋万年堂で迷った結果
1971年生まれのボクは1990年4月、つまり高校を卒業して直ちに就職しました。
入社したのは株式会社アイエー。
オートバックス事業を営む会社です。
(オートバックスはフランチャイズチェーンを展開しています)
今でこそこんなに大きな会社ですが、当時は4店舗しかなかったんですよ(笑)
ちなみになぜボクはここに決めたのか?
これ、ひとことで言えば、単純に初任給が比較対象だった会社より5000円高かったから。
ボクは特別車が好きってわけではありませんでしたし、最後まで和菓子メーカー「亀屋万年堂」と迷いました。
つまり全く違う業種で迷っていたわけです。
当時18歳の小僧はそんなもんだったんですよ。
気持ちを鍛えた下積み時代
オートバックスの仕事は、大きく言って販売と整備の2つに分かれます。
そして整備部門の方を「ピット」と呼ぶの。
何も知らないボクは、当然ピットに配属され、馬車馬のようにしごかれます。
ボクと同年代のかたなら、何となく想像がつくかもですけど、当時はまだバブルの余韻が残っているころ。
そしてベビーブームの世代がまだまだ現役で、第二次ベビーブーム世代が大人になる時代です。
要は人間が多いからそのぶん車も多い。
しかも車好きってのは、何かと厄介でしてねえ…
ここを語ると3年くらい掛かってしまうので割愛しますが、ここから4年半はまず「気持ちを鍛えられた」時代でした。
みつおが肝に銘じていたこと
ど素人のボクがピットの仕事を続けられた理由。
それはひとえに、同じミスを絶対にしなかったからだと思うんです。
これは学生時代にアルバイトをしていたころから、心に決めていましたからね。
職場の先輩も、1度のミスは大抵許してくれるの。
でも同じミスをするのはバカです。バカは叱られる。
そしてやっぱり男ですもの、職場でバカとは思われたく無いじゃないですか。
またこの頃にはもう結婚していたので、少しでもお給料を上げて欲しかった。
その為には役職に就き、お手当をいただく他ありません。
だから尚更、ミスをしないよう常に気を張って仕事に臨んでいたんですね。
その甲斐あってか、5年目の秋にボクはピット長という役職に就きました。
つまり店舗のピットの親分です。
そこからは自分の腕を磨きながらも、後輩の面倒を見なければならない立場となったわけですね。
みつおの決意
前述したように、オートバックスの仕事って、販売とピットの2つに分かれてます。
そして、ピット長に就く前から当然感じていたことですが、とにかく販売とピットって仲が悪いんですよ。
ほら、ファミレスとかでも聞くでしょ?厨房とフロアって仲が悪いって。まさにあれと同じ。
販売側は「俺たちが売るからピットに仕事が回るんだ」という主張。
それに対しピット側は「俺たちが作業をするからお前たちは商品が売れるんだ」という。
どちらも間違ってはいないんだけど、当時はまだ売上至上主義の時代。
何か揉め事が起こると、どうしたって販売側が有利な判定になることばかりだったんですね。
当たり前ですが、店のトップが決めたことには従わなくてはなりません。
なぜなら経営者がその人間をトップ、つまり店長に指名しているのですから、店長の判断は経営者の判断と言えるからです。
しかし時の流れで、商品がなかなか売れない時代に入ると、店長がピットに無理難題を押し付けてくるようになりました。
具体的には「工賃サービス」「時間外の取り付け」「ピット独自売上の向上」です。
ボクは部下とともに、出来ることは精一杯やりましたが、やってもやっても店長は「もっと」と理不尽な要求をしてきます。
店長の指示は絶対、しかしこれ以上は無理。
考えに考えたボクの結論、それが「自分が店長になること」でした。
忘れられない社長の言葉
アイエーだけではなく、当時オートバックス全体で見ても、ピット長から店長になるという階段はそれまでありませんでした。
店長は異業種からの転職組、あるいはプロパーなら販売員が出世して就くというのが相場だったんです。
つまり前例がない。
でも当時の社長(現会長)は、前例がないからといって話を聞かない人ではないことを、ボクは知っていました。
だからこそボクは社長にアポを取り、単身本社に向かい、その旨を伝えたんです。
「私に店長をやらせて下さい」
ってね。
その時いただいた社長の返事は、今でも鮮明に覚えています。
「わかりました。但し1年待って下さい。必ず体制を整えます。しかしこれだけは覚えておきなさい。私は尾込がそう言ったからお前の願いを叶えるわけではない。尾込なら出来る。私はそう判断したからだからな。」
それまでの9年間、会社の理不尽さを、同僚や部下から何度も聞かされてきました。
正直言えば、ボクだって感じないわけはなかった。
でも、社長からのこの言葉を聞いたボクは、それらを忘れることが出来ました。
みつおが考える店長の仕事
店長の仕事は多岐に渡り存在します。
いや、何なら店舗の仕事は全て店長の仕事、といっても良いでしょう。
だって何かクレーム事案が起これば、責任は店長にあるわけですから。
ただ、あえていうなら、店長の仕事は
「集客と人材育成」
ボクはそう考えるようにしていました。
「俺は人・物・金を使ってお客様を呼ぶ。だからお前達は、いらしたお客様に対して熱心に相対しなさい」
こんなスタンスですね。
この時期のスタッフも、相変わらず一筋縄ではいかない面々でしたが(笑)
それでも小さな成功を積み上げるお店になり、ボクもスタッフも会社から評価をいただく機会が増えていきました。
そしてオープン店長を
店長就任は寒川店、その後クローズしてしまった大船店を経て、ボクは新規オープンのお店を任されることとなります。
場所は横浜市泉区にある環4泉店。
↓はChatGPTが見つけてくれた現存するWebデータ
アイエーとしては久しぶりの出店だったため、絶対に失敗は出来ないお店でした。
具体的にはオープンセール4日間で売上3千万円。
そして翌年以降は、年間売上5億円を達成するというものです。
ボクにとって、オープン店長は初めての体験。当然プレッシャーはありました。
会社はこの時、ジャスダックへの上場も果たしていましたから尚更です。
しかし会社の歴史を振り返ると、この仕事はほんの一握りの人間しか経験できないこと。
ある意味貴重な経験だと考え、全身全霊で臨みました。
その結果、オートバックス本部を含んだ関係者全員を巻き込むことに成功。
オープンセールを含み、初年度から翌年にかけ、計画予算を達成することが出来ました。
身を引く時期を考える
これまでのキャリア、そして環4泉の成功を評価されたボクは、5店舗を統括する事業部長、いわゆる営業部長に昇進しました。
これはオートバックスでいうところの、営業のゴールです。
売上規模は23億円。スタッフは正社員で88名、アルバイトを含めると最大で120名ほどが部下になりました。
一般的に昇進はうれしいものだと思います。
現にうちの家内はとても喜んでいましたし。
しかし、実はこの頃からボクはもう、引き際を考えるようになっていたんです。
理由はいくつかありますが、ひとことで言うと、業界への熱が冷めていたんですね。
要は自分自身、これだけのスタッフを導いていくほどの熱量を、発散できる自信がなかったわけ。
また、副業で取り組んでいたネットビジネスが軌道に乗っていたこともあり、2015年2月に退職の運びとなりました。
まとめ
ここまでで約3000文字。
ボクの25年間全てを、この文字数で表現なんか出来るわけありません(笑)
当然辛く厳しいことも、数えきれないほどありました。
実際には、命の危機を感じたことだってたくさんあります。
ただそんなことを、あなたに伝えたくてこの記事を書いているわけではありませんからね。
この記事の目的は、今後ボクがリリースを考えているコンテンツのいわばエビデンスであり、バックボーンの表現。
つまり、新コンテンツでボクがお伝えするもの。
それはボク自身の経験によって得たスキルの情報であり、そのスキルはこの時期に培ったもの。
ここをあなたに知って欲しかったんですね。
そしてそのスキルとは、ずばり
「コミュニケーション能力」
です。
なぜ18歳の少年が、まったく興味のない業界に飛び込み、ゴールである事業部長を任されるまでに至ったのか?
これはボクが、人よりちょっとコミュニケーション能力を磨くことに熱心だったから。
それ以外に理由が見つからないんですよ(笑)
商売は最終的に人が絡むもの。
つまり、人との円滑なコミュニケーションが図れる引き出しを、あなたがいくつ持っているか?
ここが重要なところってわけですね。
ということで。
みつおの引き出し出来る限り開いて、あなたにお伝えしたい。
その一心でこれからも準備を進めて参ります。